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創業三百年味噌蔵おかみ一代記

  • axisdo
  • 2024年11月1日
  • 読了時間: 6分

東京目黒に陽子は建築家の父と母との間に生まれた。

4人兄弟の3番目、兄3人と弟に挟まれて女の子は陽子ただひとり。

父は兄たちには厳しかったけれど、陽子を目の中に入れても痛くないほどかわいがった。

小学校にあがるまでひざの上にのせてごはんを食べさせた。

 

時は戦争まっただ中。

兄たちは、父が清原飛行場の設計をしていたこともあり栃木に学童疎開した。

母と陽子だけが東京に残った。

東京大空襲の日。防空壕に逃げ遅れた陽子は、母と一緒に押し入れの中に身を縮めB29が落とす焼夷弾の音を聞きながら忍び泣きした。

 

戦争が終わると家族は東京で再び一緒に暮らし始めた。

陽子はからだが弱かった。

突発性腎臓出血で東京日赤病院で3ヶ月に一度レントゲンを撮った。

それでも名前のとおり明るく太陽のように朗らかな陽子は、女学生となった。

 

ある日、友だちに恋の悩みを打ち明けられラブレターを渡してくれと頼まれた。

その相手というのが後に陽子の伴侶となる伸一である。

何回かラブレターの仲介役をしているうち、真面目で実直な伸一が、戦後の浮かれた他の学生達に比べてとても新鮮で魅力的なことに気づいた。伸一も天真爛漫な優しい陽子に惹かれていた。二人は恋に落ちた。

 

二人の気持ちは固かったが、お互いの親兄弟は全員反対した。

都会育ちでからだの弱い陽子が、代々続く味噌蔵の嫁など勤まるはずがないと。

陽子は、お茶、お花、お料理、いわゆる花嫁修業としての習い事はすべて身につけていたが、勤めたことはなかった。いわゆる「お嬢様」だった。

それでも二人の意志は揺るがなかった。

長い年月文通のやりとりの後、27歳の時結婚した。

結婚式の日、父は言った。

「つらかったらいつでも帰っておいで」と。




 

天志古商店。下野の国、壬生町で味噌づくりを始めて三百年、

江戸後期創業の老舗の味噌蔵。初代信吉は天空を眺めることが好きだった。

満天の星を見ながら、最高位を目指していこうという思いを込めてつけた屋号が「天志古」。「原料素材が命」と味噌づくりに励んだ。



 

陽子が嫁いだ時、住み込みの従業員は20人。

帳場は昔ながらの畳、帳簿はそろばんをはじいていた。

 

九代目の祖父が経営手腕に秀で事業を盤石なものにした。

十代目となる伸一の父は学者肌で店は番頭にほとんどまかせていたが、

記帳面な人で分厚い日記を今に残す。

最後の味は必ず父が決めた。

 

伸一の母は、九代目にその手腕を見出され、おかみさんとして蔵を切り盛りしていた。

大正生まれのきちんとした人で、陽子はこのおかみさんに仕込まれることになった。

 

「私が嫁いで来た頃は、丁稚小僧が何十人と住み込んでいたんですよ。

幼い子どもが小さな風呂敷包ひとつで、寒い中、素足で親に連れられてやってきてね。

真冬は小さな手がヒビとアカギレで、味噌は塩辛いからそれがしみてね。涙をふきながら、歯を食いしばって勤めてくれたんです」

姑が最初に陽子に伝えた話に、厳しい世界に足を踏み入れたことをひしひしを感じた。




 

陽子が嫁いできた時、天志古商店は配達を従業員が行っていた。

「おぼえてちょうだい」

朝、その日配達する伝票を一枚一枚書くのが陽子の最初の仕事となった。

 

「朝4時から住み込みのみなさんの朝ご飯を作るのは嫁の仕事ですよ。

陽子さんがお料理をならっていてたすかったわ」

姑はそれから一切を陽子にまかせた。

 

敷地内には15の氏神様が祀ってあった。

その氏神様にお供えをするのも陽子の仕事。

特に、初午、正月、盆は蔵をあげての祭事。

その振舞料理もすべて陽子がまかされた。




 

夫はまじめで頑固一徹、母の言うことに耳を貸さない。

「陽子さん、ちょっといらっしゃい」

すべては陽子に向けられた。

嫁に入るというのはこういうことなのかと、しみじみ思った。

何不自由なくかわいがられて、やさしかった父と母が恋しくて涙がこぼれた。

日中は、従業員のひとたちの声に心もまぎれけれど、

夕方になって、かえるが一斉に鳴き出すとさみしくて、

どうしてこんなところにお嫁にきちゃったんだろう。

涙があとからあとからこぼれ落ちた。

そんな時、思いがけず子どもを授かった。

からだの弱い陽子に子が授かったことは奇跡だった。

両家の両親は跡継ぎを生んだことで安堵したという。

でも、長男浩明をおぶって、朝から晩まで姑の厳しい指導は容赦なかった。




 

ある日、陽子は浩明をおぶったまま、気がつくとバス停までとぼとぼと歩いていた。

「つらかったらいつでも帰っておいで」

優しい父の声がこだましていた。

東京に帰りたい一心で、薄暗いいなか道を歩いてやっとバス停にたどり着くと、

浩明がおなかがすいて泣き出した。

バスは2時間に1本しか来ない。どうしよう。

しかたなくまた家に帰った。

蔵のひとはみんなやさしかった。

「いつかきっと報われますよ」

陽子は帰らなかった。

そうして、月日は流れ、陽子は十一代おかみとなった。




 

年に一度の寒仕込み。

1月20日頃から2月末厳寒期のおよそひと月はふとんに横になる暇がない。

冷たい水で米を洗うことから始まる。




米と大豆を発酵させる。30分おきに温度を見に行く。だから寝られない。

真冬の真夜中、夫とジャンケンして負けた方が見に行くことにしたが、

夫は寝てしまうと起きない。だから必然的に陽子が受け持った。

麹と塩を手で混ぜる。これを丸1日。とうとう指紋がなくなった。

大豆と混ぜる時は3メートルほどの木製のスコップを使う。

金物は麹が好まない。

木樽に8分目まで入れたら、麻の布をかぶせ

その上におよそ10キロの玉石を積み上げていく。

味噌の重さと同じ3トン分。

梯子をつかって玉石を積み上げるこの重労働はさすがに男仕事だ。

熟成するとたまりができる。これを大きな木べらで天地返し。

たまりが味噌に均一にしみわたる。

夫の伸一は、天志古初代の理念を受け継ぎ原材料にこだわり抜いた。

米はコシヒカリ特選米。

大豆はタチナガハ大粒1等級。

塩は沖縄シママースとクリスマス島ニューカレドニア島の塩をブレンド。

利尻昆布、沖縄の黒糖、日光天然水。

味をひとつひとつ確かめ選び抜かれた逸品を丁寧に寒仕込み。

それが三百年の味噌蔵、古を尊び最高位を極め続ける天志古味噌。

 

幼い丁稚達の背を測る柱の傷。正座して食事した板の間。

それが今も残っています」




 

味噌は麹がすべて。

計り知れない先人たちの苦労を蔵の麹菌は伝えて、それがその蔵その蔵の味になる。

300年の風雪に耐え踏ん張り続ける味噌蔵

「私も負けない」

古い蔵元に嫁いで53年。

十一代おかみ陽子は83歳になった。

今日も笑顔でお客さまに語り継ぐ。



 
 
 

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